営業理念は「誠実であること」、
「努力を惜しまないこと」。
そして「安く、正確に」。
三代に渡って受け継がれた
技術とともに、
日々研鑽に励みます。
営業理念は「誠実であること」、
「努力を惜しまないこと」。
そして「安く、正確に」。
三代に渡って受け継がれた
技術とともに、
日々研鑽に励みます。
1940年7月1日、日本初の管楽器修理店として開業。長年培ってきた技術は世界のプレーヤーから高い評価をいただき、ご愛顧を賜ってまいりました。
修理料金が安価で仕上がりが早いのは、初代が終戦後に高橋管楽器を開いて以来、ご愛顧くださった方々、すなわち楽器をお持ちくださることで職人を育ててくださった方々への恩返しのつもりで営業しているからです。
今後とも現状に満足することなく、誠実に、努力を惜しまず、日々研鑽を重ね、みなさまの大切な楽器と向き合ってまいります。
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高橋治雄 作業風景(昭和41年頃)
高橋管楽器の初代オーナーである高橋治雄は、日本管楽器(通称・日管/現・ヤマハ)に徒弟として入社、先輩達の技術を見て覚え、戦前にはサックス先進国のサックスを製造販売していました。治雄は人が1本作る所を2本作り、その早さ・正確さ・仕上がり等、超一流であったと誇っています。
その時日管の工場長であった石森善吉の次女・美保子と結婚、敗戦を迎えました。日管の給料では食べていけず、仕事終了後にキャバレー・ナイトクラブ等に勤める当時の一流バンドマン達の間を回りながら修理業を始め、彼らの信用を得ながら親交を結び、この親交が後に進駐軍の仕事に結びつき、進駐軍からの仕事が舞い込むようになります。
そうして、修理業を主体とした仕事に乗り出しました。東京の大久保にて日本で初めての管楽器修理業の看板を挙げたのです。
敗戦直後のないないづくしの中で、妻と2人で進駐軍の仕事を一手にやるようになり、山ほどの修理品を前に「これでやっていける」と自信を深めまます。
修理業の発展を確信した治雄は石森善吉の長男である石森実を呼び寄せ、店構えを向かい合わせで開業。それから長い間、高橋管楽器と石森管楽器は向かい合いながら修理業を発展させていくのでした。
高橋治雄が築いたものは、現在高橋管楽器の二人の職人に受け継がれております。
初代
高橋 治雄
AWARDS
MEDIA
「ちい散歩」にて
地井武男さんに
描いていただきました。