高橋管楽器の初代オーナーである高橋治雄は、日本管楽器(通称・日管/現・ヤマハ)に徒弟として入社、先輩達の技術を見て覚え、戦前にはサックス先進国のサックスを製造販売していました。治雄は人が1本作る所を2本作り、その早さ・正確さ・仕上がり等、超一流であったと誇っています。
その時日管の工場長であった石森善吉の次女・美保子と結婚、敗戦を迎えました。日管の給料では食べていけず、仕事終了後にキャバレー・ナイトクラブ等に勤める当時の一流バンドマン達の間を回りながら修理業を始め、彼らの信用を得ながら親交を結び、この親交が後に進駐軍の仕事に結びつき、進駐軍からの仕事が舞い込むようになります。
そうして、修理業を主体とした仕事に乗り出しました。この地、東京の大久保にて日本で初めての管楽器修理業の看板を挙げたのです。
敗戦直後のないないづくしの中で、妻と2人で進駐軍の仕事を一手にやるようになり、山ほどの修理品を前に「これでやっていける」と自信を深め、石森を呼び寄せ、店構えを向かい合わせで開業。これが長い間、高橋と石森が向かい合いながら修理業を発展させていった時でした。 |